zunda zunda

音楽とか、本とか、毎日とか。

No Surprises

前のブログ投稿が14日前になってたので、旅行に行ったのももう2週間前になるのか〜と思って寂しくなりました。
結局僕は何がしたいのか、もちろん目線のすぐ先にある一つ一つのことではなくて、それらを全てこなした後に見えてくるものは何なのか。人と同じことをして周りに歩調をあわせるのかそれとも人と違うことをして奇抜さを出すのか、このバランス感覚こそが自分を相対的に見た上でここ5年程で最も重要なことではないのかそういう結論に至ったわけですが。本当はこんなことなんて考えるべきではないしみんなが口に出すような、好きにすれば良い、で片付くことではあるんでしょう確実に煩悩の一種です。いつになったらこの煩悩たちから解脱できるのか、年を取れば自然と解脱が見えてくる、いわゆる悟りの境地に達せると信じてたのですがよくよく考えてみれば60代以上の老人というのは自分のことをひたすら一方的に話し続けたりティーンエイジャーのものとはまた別のモラルに欠けた言動が多いので、解脱、ではなく10代の頃への回帰を選んでしまう可能性もあるわけで。実際髪の毛の一部に紫や緑の染色を施すというのは10代、20代前半、または60代以上の老婆が多いと感じるので、このことからも解脱ではなく回帰を選ぶという事実につながるのではないのか。では解脱する瞬間は意識的なのか、無意識的なのか。次はここをはっきりとさせてしまえば回帰を選ぶリスクを減らせるのではないか。自分が「知らない」という事実を知る瞬間、自分が「無意識」である事実を意識する瞬間。これらは最も難しいと思うしできるようになれば自分を含めたまるで蟻地獄のような人間関係を鳥瞰図のように見渡すことができることは確実なのですがそのためには自我に入り込み過ぎては駄目だし、自我を野放しにしすぎても駄目だし、やっぱりバランス感覚なのかなぁ。
最近僕が選んでいる方法としては、自己のパターン化です。20年、物心ついてからは15年程、そのくらい生きていれば、恋愛に例えてみると、相手がAという行動をとったら自分がBという感情を抱き、Cという行動にでることが大体は分かってくる。それがA'になるかaになるかそれはそのとき次第だけど過去の自分の行動を分析してみると確実に似たパターンが現れている。それを生かしてもし相手がDの行動を起こしたならばそれに対して自分はEの感情を抱きFの行動にでる、そのFの行動がもし良くないとするならばEの感情を抱かなければ良い。それが相手の行動が起こった瞬間に即座に逆算できるようになればD→Fとなることを防ぐことができる、自分の気持ちを少しセーブできるんじゃないのか。
第一自分との付き合い方を考えること自体が煩悩だし、先に書いたバランス感覚なんてものももちろん煩悩。僕が目指す解脱、虚脱、悟りの境地というものは周囲よりも自己との付き合い方等の煩悩を軽やかに乗りこなす。それを楽しむ。年老いてから僕はただひたすら静かに死を待ちたいのである。そして、そのためには煩悩などというものが決定的に不要なのである。