zunda zunda

音楽とか、本とか、毎日とか。

april

4月になっていた。夜は寒い、いつになったら春は来るのか。毎年春を待ち続けて気付けば初夏になっている。たぶん、僕は冬の間、ずっと初夏を待っている。
冬は寒いので早く夏になって欲しいし、夏は暑いので早く冬になって欲しいと思う。完璧な季節はどこだ。

3月の記憶は特にない。ライブをしたけどあんなの1ミリくらいしか覚えてない。映画を多く見るようになって、ずっと映画を見ていたいなんて思ってたけど所詮は映画だ。それで何かがどうか変わるものではない。映画ばっかり見ていてもどうも変わらない、と思った瞬間に興味が一気に薄れてしまった。0か100かのどっちかなのか僕は。間をとりたい。


最近は成功についてよく考える。結論だけ言えば世の中の成功は結局お金なのだ。公務員になったら安定する、経済的に。就職をして立派な会社員になれば安定する、経済的に。それ以上もなにもない。正しいと思う。確かに正しいがなぜこうも刷り込まれているのか。メディア、テレビやラジオや週刊誌がいけないのか。小説の主人公はこの生き方を刷り込まれようとすることから逃げて自分らしい生き方を模索する。それを読んで自分らしい生き方を探すことは主人公がするような特殊なものであると思い、刷り込まれるのが当然だと思うようになる。そういう生き方、例えば公務員などを皮肉るように表現する人がいるけどこっちが恥ずかしくなる。そういう人は自分のほうが綺麗に刷り込まれた人よりも価値があると思っている。価値なんて考えだしたらキリがない。初めから価値なんて無いのかもしれない。

さて、どうすれば刷り込まずに子供を育てることができるのか、刷り込まれないで育った子供はどんな人生を送るのか、とても興味深い。ストーリーの中で刷り込みが発生するものからは隔離して、リストラ等で悲しんでいる会社員のニュースからも遠ざける。なぜそれで悲しむのか興味を抱かせたらいけない。親もできるだけそこには干渉しない。雇われて給料をもらうことがマジョリティーということを決して教えてはいけない。お金を発生するものを作る側、例えばミュージシャンや俳優などがマイノリティーだということも教えてはいけない。職業だけではなく、住む場所、服装、言葉、全てが平等に価値があることだけを教える。実験である。

はじめは、いつか自分の子供ができたら試してみたいと思っていたが自分は割と情が沸いてしまうタイプなので向いてないと思う。虐待とかしてしまう人にこの話を持ちかけて、そうやって子供を死なせてしまうくらいならこの実験をやってみませんか、とお願いしたいところである。そうすれば子供は辛い思いをして死なずに済む。一石二鳥である。何を考えているんだ僕は。



働きたくないと口癖のように言いながら僕はここ3週間ほど休みがない。頭を使ったお金の稼ぎ方を見つけたので徐々にそっちにシフトしていこうと思う。本当に働きたくない。働きたくないが僕はお金という概念を刷り込まれすぎてしまったのでどうしようもないのである。

22

10日ほど前に誕生日が来て、22歳になった。いろんな人に支えられて生きている。ありがとうございます。来年も無事に23歳になれればいいと思う。
本当なら大学を卒業していてもおかしくはないが、いまのところ卒業の目処はまだ立っていない。本当が何なのか、わからなくなってきた。

元々僕は人と接することは嫌いではなく、むしろ好きなくらいだった。しかし今はできるだけ人に会いたくないし、接したくない。
人間が嫌いになった、の一言で済む問題ではない。期待しすぎていた。大人はみんな完璧だと思っていた。少し話をしただけですぐにボロがでるなんてあり得ないことだと思っていた。
新しい人と接する時、この人こそは僕が求めている理想を持っているのかもしれない、と一抹の期待をしているのだがそれはことごとく無駄なことだと知る。
僕は飽き飽きしているのである。
高望みしている、と言われれば近いかもしれないが厳密に言えばそうではない。
人間関係は娯楽なのである。読書、音楽、映画の鑑賞、セックスをすることと同じなのである。より良いものを求めて新しい作家を探したり、新譜を買ったりすることと何ら変わりがないのである。


最近は本当に自分の時間がなく、心に余裕がないのでつまらないものを一層つまらなくかんじてしまいがちなのだが、所詮つまらないものはつまらないものである。どうしようもない。
一日中家にこもって新しい面白いものを探したいのだが残念ながら不可能だ。

人間関係に対する飽きと同じようなものを音楽にも感じ始めている。より革新的なものでなければ受け付けなくなっている。何かの二番煎じでは満足できない。
圧倒的に新しいものを探す時間が足りない。このままこの感覚に慣れてしまうことだけは避けたい。


いろいろと書いてしまったが、つまりは僕は圧倒的に働きたくないのである。20代前半の貴重な一分一秒を時給換算されることに対して、違和感しかない。

本当に働きたくない。

22歳のこの一年間、できるだけ働かないことを目標にしようと思っている。


Nothing else

今日は久しぶりの休みだ。と思ったら昨日も休みだった。
朝起きたら彼女がいなくなったのでまた眠って、起きてコーヒーを飲んで、煙草を吸って、映画を観て、大学に少し行って、ビールを飲んで、少し眠った。

希望通りに、4月からは国際機構論が勉強できるらしい。

煙草を吸って死に至る確率よりも車を乗り回して事故を起こして死ぬ方が危険だし、恣意的なものとはかけ離れているんじゃないかとも思ったりした一日だった。

考えるということ

世の中、少なくとも僕の周りには頭の悪い人が多い。おそらく僕も向こう側の人間からしてみれば頭の悪い人間だと思われているだろう。誰しもが自分は思慮深く考えることが出来る人間だと思っている。
そんなことはどうだって良いのである。結果を見れば全てが明らかだ。頭の悪さがにじみ出るように露呈しているのが分かる。いや、頭の悪さは関係がないかもしれない。結局そこを左右するのは思考による結果なのか、成り行きが生んだ結果なのか、それは一目で分かる。
考えることによって頭の悪さは十二分にカバーできる。しかし疑問を持たなければ考えるきっかけにもならない。
今目の前にある情報が本当に正しいのか。インターネット上の情報のほとんどは自分の目の前に「流れ着いた」ものであって自分からつかみ取ったものではない。売れている音楽、書籍、映画、全ては恣意的なものであるのにも関わらず平然と吸収しまるで自分のものであるかのように振る舞う。それを疑問に思わなくてどうする。

書かないでいいことを書いてしまったと正直思っている。少しでも気付く人が増えてしまえばその貴重な情報の価値が下がってしまう。何のことか分からない人は需要と供給の関係を復習した方がいい。
僕と僕が認める数少ない人たち以外は俗にいう情弱のままでいいのである。そのほうが扱いやすい。

寝る前にこれを更新してしまうと最悪の結果を生んでしまう。何が言いたいのかと言うと、これを読んだことをすぐにでも忘れて欲しい。何も考えないで欲しい。社会に操られた人形のような存在の方が圧倒的に楽だと思う。

僕は寝る。

過去か未来か

時事ドットコム:【図解・社会】自殺者数の推移

10日ほど前の記事だが、今年も自殺者が減ったようで何より。
月ごとの自殺者の変動は意外と毎年少ないようだ。ただ、曜日ごとで見るとやはり月曜日に自殺する人が多いというのは事実なようで、「五月病」という言葉があるように少しだけ5月6月あたりが多いらしい。
自殺の原因については多種多様なもので個人差があると思うのでここでそれについて触れるつもりはないが、世界各国を見ても男性のほうが女性より自殺に対する耐性が低いのは気になる。

図録▽世界各国の男女別自殺率

やはり男性は過去に拘り、女性は未来を見ているのか。恋愛でのそういったたとえ話はよく耳にするが。
自分は男で、確かに過去に生きているのを否定は出来ないが、そうやって後ろを振り返っている分を生かしてより良いものに出来ると信じるしか無いのか。

神はいるのか

あけましておめでとうございます。
初詣にはたくさん行った。六社参りくらいした。

何のために詣でたかというと、まあみなさんもそうであるとは思うが、個人的な諸々を祈るためである。
じゃあ何に祈ったのか。そう、神様である。

僕は別に宗教の深入った話をして知識を披露したい訳ではなく、神について考えたいだけだ。

そもそも神社は誰が作ったものなのか。お寺は、教会は、聖書は、コーランは。
もちろん全て人間である。神様に断わらずに勝手に神仏習合したのも人間である。
ここまでは認める人が多いのだが、神自体を作ったのは人間であるということに関してはスムーズに認められない人が多い。

普段の生活の中でも、都合の良いことがあれば日頃の行いに対してのご褒美だと思い、困ったことがあるとどうにかしてほしいと願う。良くないことをしてしまえばそれに対して「バチが当たる」という風に心配をする。
根底には全て神の存在がある。褒美を与えるのは神だし、罰を与えるのも神。全てをプラマイゼロに戻すのも神の仕事。


そこで、いつまで人間は自分たちが何作った神の存在に怯えながら生活するのか!本当に馬鹿らしくなってこれを書くに至っている。

少し締まりが悪くなった気もするが何が言いたいのかと言うと、どうせ神なんて人間が作ったものだったら、それだったらどうにかして自分が神になりたいということである。今年は新興宗教を立ち上げる以外の方法でそうなる方法を模索していきたいと思う。神になりたい。

そう言う自分は少々風邪気味である。何かのバチが当たったのかもしれない。

口蓋垂

先日の父の誕生日にすき焼きをしたところ、不覚にも「のどちんこ」を火傷してしまった。何かを飲み込む際にも、声を出す際にも痛い。のどちんこさえなかったらこんな辛い思いはせずに済んだのに、と のどちんこに対する不満や怒り、ひいては疑問まで感じるようになってきた。

まずは問題ののどちんこの正式名称について、「口蓋垂」というらしい。正直、ほっとした。正式名称が喉陰茎などという何のひねりもないものだったらどうしようかと思っていた。マシなものでよかった。

以下、口蓋垂の説明をWikipediaからの引用である。口蓋垂 - Wikipedia

通称喉彦(のどびこ、のどひこ)・上舌(うわじた)・のどちんこ(垂れた様子が陰茎に似ているため)ともいう。発生学的には口蓋の左右の組織が一つに繋がる段階で余った部分であるため、人によって2つ、または3つあったり、先が2つに割れていたりすることもある。

余った部分なのか。驚きである。自分の口蓋垂が1つではない方は是非ともご一報欲しい。画像ではなくて実物が見てみたい。

そして、なぜ口蓋垂が存在するのか、ということについては Yahoo知恵袋に分かりやすく記載してあった。のどちんこって何か意味あるんですか? - Yahoo!知恵袋

ノドに入ってくる物を早い段階で感知して、必要に応じてノドを開けたり閉めたりするセンサーの役割が少しあります。

私は、イビキの治療のために、のどちんこ切除手術しました。

切除の直後。
普通は、うがいなどをするときに水を口に含んで上を向くと、なにも考えていなくてもノドの奥がきゅっと無意識に閉じて水の進入を防ぎますけど、ノドちんこ切除の直後は、なにも考えずにうがいをしようとするとノドの奥が自動的にはきゅっと締まらないので水が気管に入っちゃってゴホゴホゴホってことが良くありました。

でも今ではなれちゃったので意識しなくてもだいじょうぶです。。。。ってことは、やっぱのどちんこはいらないのかもね。

あっ、それから、千葉真一のモノマネをしている関根勤が出すような、ノドの奥をふるわせてグォーっていう音が出せなくなりました。
モノマネ芸人とか、特殊な音をノドで出す必要がある人がもしいれば、ノドちんこは重要かもしれません。

自分のモノマネのレパートリーには千葉真一はないので、切除するのもアリかなと思った。

とりあえずは火傷が完治してからゆっくり考えたい。